アニメの理想郷で起こった悲劇
The Asahi Shimbun via Getty Images

アニメの理想郷で起こった悲劇

20億ドル規模の好況な日本のアニメ業界の礎であり、多くのファンに愛される京都アニメーションを全焼させようと、精神に異常をきたした放火犯が火を放ち、日本において第二次世界大戦以来最悪となる大量殺人事件が起こった。同社の創業者は、悲劇的な7月の事件以来初となる詳細なインタビューの中でショックと絶望について胸中を明かしつつも、「1人でもいる限り、私たちは進み続ける」と述べ、復活への意気込みも語った。

[ A version of this story first appeared in English in the Dec. 19 issue of The Hollywood Reporter magazine. THR subsequently had the article translated to make it more accessible to readers in Japan. ]

[ この記事は、2019年12月19日発行 The Hollywood Reporter誌にて英語で公開された。THRは追って、オリジナルの英語版を日本の読者向けに翻訳し、公開した。]

7月18日午前10時30分頃、日本の歴史的な都市である京都の静かな郊外、宇治にある3階建ての黄色い建物のひっそりとした玄関前に、赤いTシャツとジーンズを着た体格のいい乱れ髪の男が到着した。建物内には、日本で最も愛されているエンターテインメント企業の1つに数えられる京都アニメーション(ファンからは親しみを込めて「京アニ」と呼ばれていた)の従業員70人ほどがいた。男はガソリンが入った大きなバケツを引きずりながら、施錠されていない正面ドアに押し入り、バケツを倒した。そしてライターをつけ、「死ね!」と叫んだ。

最初の爆発から10秒以内に、1階は514℃で燃える火炉と化した。20秒以内に、2階は完全に燃え上がった。25秒後には、3階の窓が外れて落ちた。1分足らずで、93℃以上の有害な黒煙が建物内の最高部の隅々まで充満した。

火は5時間にわたって容赦なく燃え続け、完全に消えるには翌朝までかかった。第1スタジオと呼ばれていたその建物の内部は、中身がすっかり失われており、ゆがんで黒焦げになった抜け殻が残っているだけだった。その日の晩までに、従業員33人の遺体が救助隊員によって収容された。さらに数十人が負傷の手当てを受け、その多くが重傷だった。その後数週間で、負傷者のうち3人が命を落とし、最終的な死者数は36人にのぼった。日本で起こった死者の出た火災のうち、放火が疑われた事件は他にもあるが、今回の凶行は第二次世界大戦後最大の大量殺人事件となった。

事件発生日の午前中、第1スタジオの真向かいの住人は火事場の混乱の中で、建物の正面玄関から出てきて路上に横たわっている、目に見える火傷を負った大柄の男の救助に当たった。住人の女性が庭のホースで男の火傷にそっと冷水をかけ始めると、男はやっとのことで立ち上がり、よろめきながら人通りの多い道路につながる中庭へと向かった。燃え上がる建物から同じく脱出できた京アニの従業員2人が男を追って走り始めた。2人は男にタックルし、地面に押さえつけた。警察が来ると、男は「俺の作品をパクりやがった!」と叫び、「社長」と話がしたいと要求した。

京都アニメーションの八田英明代表取締役社長は、その日の午前中の大半を、日本の放送局であるNHKとの11時の打ち合わせに備えて過ごした。京アニは2020年の夏季パラリンピック東京大会のためにNHKから委託を受けており、NHKは宣材用として同社のアニメーターの仕事中の姿を撮影させてほしいと依頼を出していた。撮影は第1スタジオで行われる予定だった。10時半過ぎ、八田社長が京アニの地元事務所の1つである第5スタジオで打ち合わせを終えようとしていた頃、社長の携帯電話に火災発生の一報が入った。

放火事件以来初めて今回の火災について詳しく語ってくれた八田社長(70)は「知らせを聞いた時は、大ごとだとは思わなかった」と話す。白髪交じりで、口が傾いた愛想のいい笑顔を浮かべる小柄な八田社長は、自力で大成した企業家らしくきびきびとして活力に溢れた人物で、しばしば書類やファイルの束を胸に抱え、小さな緑の手帳に頻繁に目をやる。電話をかけてきた相手はその火災について特に怯えているようでもなく、第1スタジオは屋内禁煙だったため、八田社長は何かちょっとしたことで火災探知機が鳴ったのだろうと考え、この日もいつも通り会議に明け暮れる1日になることを想定しながら業務を続けた。

八田社長と陽子夫人は、1981年に京都アニメーションを創業した。小規模な制作会社としてつつましい一歩を踏み出した同社は、日本で最も成功を収めているスタジオの1つへと成長した。200人以上の従業員を抱える京アニだが、東京の大手スタジオの基準に照らせばまだその規模は小さいと言える。しかし、手広く事業を行う家族経営版のピクサーのような同社は、その表現方法と繊細なストーリーで信じがたいほど高い評価を受けている。

アニメは2018年には日本国内で20億ドル規模の産業となり、日本のソフトパワー輸出における主力の1つとなっている。オバマ大統領は2015年4月の演説で、日本による世界の文化への主な貢献として、カラオケ、空手と並んでアニメを挙げているほどだ。火災の発生日には、AppleのCEOティム・クック氏が「京都アニメーションは世界で最も才能あるアニメーターやドリーマーたちの拠点」であり、今回の攻撃は「日本にとどまらない悲劇だ」とツイートしている。

超能力を持つ聡明な女子高校生が主人公の大ヒットテレビアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』や、戦後の人生の意味を追い求める元兵士を描き、2018年にはNetflixが取得した『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』など、近年、京アニによる作品は極めて高い評価を集め、国境を越えた熱心なファン層を培ってきた。若年層の間でヒットした『らき☆すた』や『Free!』を手がけたのも京アニだ。また、自殺を考える十代の少年が、昔いじめたことのある聴覚障害者のクラスメイトに償いをしようとする姿を描き、日本国内で約3000万ドルの興行成績を上げた『聲の形』など、より難しい心情の描写に挑戦する長編映画の制作も行っている。京アニの代理人を務める桶田大介弁護士は「京アニは過度な性や暴力を使ってこなかった」と語る。今挙げたような京アニの「日常系」作品の大半では、友情や誠実さに焦点が当てられている。しかし、同ジャンルにありがちなものと比べると、描き方は繊細だ。京アニによると、そうした描き方をしているのは、生きる悲しみに希望をもたらすためとのことだ。「京アニは、世界は悲劇であふれていると信じていた」と桶田弁護士は言う。

全世界で3億5800万ドルの興行成績を上げ、過去10年間で最も成功した日本アニメとなった2017年の『君の名は。』の新海誠監督は、「アニメーションを、真の意味で大衆のものにしたのが京アニだと思います」と語る。「マニアではないごく普通の高校生や社会人が家でアニメを見て、その主題歌をカラオケで唄い、コラボ商品が街中に広がり、アニメの話題で友人と話す。今や当たり前となったそういう日本の文化は、京アニ作品の牽引によって生まれました。一つの文化を創った、あるいはある世代の行動様式をまるごと変えてしまった。京アニの作品にはそれほどの力がありました」と新海監督は説明する。

日本のアイデンティティとして人気の中心になっているにもかかわらず、アニメ業界には昔から暗い一面もあった。アニメスタジオは不当な長時間労働、福利厚生がまったくないかほとんどないという搾取的な労働条件、多くの雇用主が労働者を使い捨てのものと見なしていることで知られている。こうした形で日本の労働基準法に違反している企業はブラック企業と呼ばれている。東京のアニメ界はブラック企業の温床として悪名をとどろかせており、フレームごとに報酬が支払われるフリーランスのアニメーターは、次から次へと別の作品に回される。しかし京アニは創業当初から、そうした慣例とは一線を画す待遇を意識的に提供してきており、その良識ある企業行動で高い評判を得ている。

八田夫妻は1975年に京都で出会い、まもなく結婚して3人の子供を授かった。起業を決意するのはその後のことだ。夫妻は数多くの話し合いを重ねた上で、アニメ会社を興すことにした。陽子夫人は東京の大手アニメスタジオの彩色部門で働いた経験があり、夫妻はアニメという分野が急速に発展していることをわかっていたからだ。しかし、アニメ業界は費用のかかる制作方法を用いた、管理職の多すぎる業界でもあった。東京の大手スタジオでは、アニメーターが原画や動画を何百枚も描き上げると、韓国や中国に送られ、現地の低賃金労働者により彩色が行われていた。八田夫妻はこうした外注作業を、京都や周辺の関西地方に数多くいる求職中の人材に委ねることで、中間業者をなくしたいと考えた。

夫妻は日本で2番目に大きい都市である大阪の新聞に未経験者を募集する広告を出し、アニメ制作の基礎を教えた。広告には「彩色教えます」と書かれている。1983年に採用されたコウダミホコさんのように、主な応募者は子育てに追われながらも日本の経済成長に参加する意欲を持った団塊世代の専業主婦たちだった。

京都の北東の沿岸地域に位置する福井県の農家出身の八田社長は、田んぼで農作業に明け暮れる年長者たちに囲まれて育った。「米を作るっていうのは、土を作り、耕して、水張って、植えて、草を取って、時期がきたら刈っていく。日本の農耕文化というのは、育てること。アニメーションも、育てていくもんだと。そこのところを大事にしていきたいと思っています」と八田社長は語る。

八田夫妻はコウダさんのような母親たちに在宅勤務を許可した。これは当時の日本ではほとんど前代未聞のことだった。また、9時から6時までという妥当な労働時間を守るよう求め、部門間でのコミュニケーションを促進した。これらの慣習は、東京の厳しい大手スタジオでは想像もできないものだった。コウダさんは30年以上が経った今も京アニで働いている。2014年には、八田夫妻はコウダさんの娘も雇用した。

身内には暖かい京アニだが、部外者からは秘密主義だと見なされてきた。八田夫妻は常に、作品自体が全てを語っているはずだと主張し、インタビューに応じることはめったになかった。しかし時が経つにつれ、京アニの文化は十分明らかになり、「歴史ある洗練された京都に隠された、プロたちの理想郷」という特異な印象を日本のアニメ界の中で作り上げた。

火災の3週間前、20年以上にわたって京アニに在籍し同社で最も尊敬を集めるアニメーターの1人であった木上益治氏(享年61)は、自身が思うところの京アニの社風について「仕事だけが全てではない」が、作業場にいる限り京アニ社員は互いに助け合い、「1人1人がもっと、今ここに居ることに対する責任を感じ」、できる限り最高の作品を作ることで、存在していることを最大限に活かすべきだと朝の会議で語っていた。

京アニでは、第1スタジオが主にクリエイティビティーのハブとして機能していた。外から見ると、大きな窓とルーフバルコニーを備えた素朴な長方形のブロック状の建物だが、内装は落ち着いたスパのような雰囲気だった。壁は温かみのある明るい色の板張りで、片隅には畳が敷かれ、従業員が休憩したり、身体を伸ばしたり、ブレインストーミングのために集まったりできるようになっていた。建物の主な特徴となっていたのは3階からロビーへと下る、各部門と人々をつなぐ創造性の命綱であった螺旋階段だ。

***

火災の4日前、京都から455キロ離れた首都圏にあり、労働者階級が多く住む埼玉で、電子機器会社に勤めるマツモトさん(プライバシー保護のため、下の名前は明かさなかった)は、自宅で静かな日曜の朝を満喫していた。その日、7月14日は3連休週末の2日目で、品質管理を担当する27歳のマツモトさんはYouTubeでゲームの実況配信を見ていた。すると突然、家具を組み立てているようなドンドンという大きな音が上階の部屋から聞こえてきた。そのすぐ後、隣の104号室に住む別の住人が壁を叩き始めた。それを聞いて胃がキュッとしたとマツモトさんは言う。

104号室に住む41歳の青葉真司は、あまり近所付き合いを好む人物ではなかった。数年前、初めて青葉と道ですれ違ったマツモトさんは挨拶をしたが、青葉はそれを無視した。それ以来、マツモトさんは青葉に関わらないようにしてきた。青葉は手入れされていない汚い無精ひげを生やしただらしない身なりの男で、同じ服を何日も続けて着ていることもよくあった。「ひどく臭う人だった。本当にすごく臭かった。あの臭いだと、レストランからも間違いなく入店拒否されるだろう」とマツモトさんは話す。

青葉は無礼な男でもあった。彼はほぼ毎日、正午ごろに大型スピーカーから大音量で音楽を流していた。それは音楽と呼ぶには無理のあるもので、どちらかと言えばテレビゲームでキャラクターがフィールドを歩く時に使われる電子音のような、始まりも終わりもない無味乾燥なつなぎの効果音だった。マツモトさんはそれを何度も耳にしていたので、青葉は5~6秒のループを繰り返し流していると断定できるほどだった。青葉は午前0時頃に、マツモトさんには「雑音」としか言い表せない、線路を走る電車のような轟音を出す耳障りな金属製のドローンを操縦することもしばしばあった。

同じく夜間には、人気のない埼玉の道路を走るために高性能ロードバイクを部屋から引っ張り出している青葉の姿を見かけることも時々あったという。マツモトさんは青葉の部屋からの騒音に耐えかねて警察を呼んだこともあり、本人の記憶によればその回数は過去2年間で6回にのぼる。警察が来た後、1週間から数週間ほどは静かになるが、その後は再び騒音が始まる。

その日曜日、青葉が104号室の壁を叩き始めた時、マツモトさんはいつものように不快さに耐えるつもりだった。上階からの物音は続いた。青葉が訪ねてきてマツモトさんの玄関ドアを叩いたが、応答せずにいると自分の部屋に戻り、マツモトさんの部屋との間の壁を叩き続けた。解決策がなくうんざりしたマツモトさんは、最終的に青葉の部屋のドアをノックし、金属製の郵便受けを開けて中へ向けて「音を出してるのはうちじゃなく、上階の住人だ」と叫んだ。突然、些細な騒音問題に激怒するのがよりにもよって青葉であるというのは皮肉だった。

青葉は自分の部屋から、マツモトさんの部屋との間の壁に向かって激しく物を投げつけ始めた。たちまち両者は再び外に出た。青葉はマツモトさんのシャツの胸ぐらと髪の毛をつかみ、「うるせえよ、黙れ! 殺すぞ!」と激高した。マツモトさんが騒音は自分の部屋からではないと抗議すると、青葉は「関係ねえ。うるせえよ。お前を殺すぞ。こっちは失うもんねえからよ」と言い返した。

最終的に青葉が手を放すと、ひどく動揺したマツモトさんは家にいるのが怖くなり、直接警察署へ歩いて行って通報した。言い争いの最中間近で見た青葉の目は、「正気じゃない」ように見えたと後に語っている。彼は実家で新しい部屋をオンラインで探しながら残りの週末を過ごしたという。

マツモトさんを襲った後、青葉は急に埼玉を離れた。7月15日の月曜日、青葉は新幹線で京都へ行き、毎年何百万人もの旅行者を集めている神社や寺院にほど近い市街地のホテルにチェックインした。翌朝、青葉は京アニのスタジオが建つ、京都郊外の高台にある宇治に向かった。京都駅南のインターネットカフェなど、道中の複数箇所の監視カメラ映像で青葉の姿が確認できる。青葉はその夜も、近くの別のホテルに宿泊した。

水曜日、マツモトさんを襲った時のジーンズと赤いTシャツを着たままの青葉は、ホームセンターに入って金属製の台車を購入した。青葉はその台車を時折がたつかせながら、宇治川の土手沿いを北へ9キロメートルほど押して歩いた。その日の午後、ガソリンスタンドのエネオスに立ち寄り、赤いプラスチック容器2個分、40リットルのガソリンを購入して台車に積み込んだ。踏切を渡り、ブランコがぽつんと置かれた高速道路の高架下にある人気のない桃山船泊公園に入った青葉は、ガソリン容器を隣に置いて、1つきりのベンチに横たわった。

***

火災発生日の午前中、八田社長がNHKの宣材撮影のために第1スタジオに向かっていると、濃く立ち上る不穏な煙が空を暗くした。非現実的な感覚が八田社長を襲い、炎に近づくにつれてその感覚は鋭さを増していった。

近くに駐車場が見つからず、八田社長は車を降りて800メートルほどの距離を走ってスタジオへと向かった。「距離の感覚を感じることができなかった」と社長は言う。消防隊員が道に立ち並び、入ろうとする八田社長を阻んでいた。押しのけて群衆に飛び込んだ社長が走っていくと、従業員数人が路上に倒れていた。従業員たちは黒い顔をして、濡れたタオルを握りしめていた。

「皆んなどうしたの?」と、八田社長は集まった従業員と傍観者に尋ねた。

八田社長はその日、現場に最初に到着したうちの1人だったが、建物内にいた70人の従業員の運命はおおむねすでに決まっていた。炎の化学反応により、建物の物理特性が一瞬にして変容した。曲線を描く螺旋階段は、火を猛火へと変える中枢機構となる強力な煙突と化した。1階では、炎が2人の従業員をたちまち飲み込んだ。2階ではさらに11人が亡くなった。19人の男女が3階と屋上をつなぐ吹き抜けの上部までたどり着いたが、その先には行けなかった。彼らの遺体はドアの前で互いに折り重なった状態で発見された。ドア自体に鍵はかかっていなかったが、誰も開けることはできなかった。京都大学防災研究所の西野智研准教授が後にまとめた報告書には、全身が煙に巻かれ、屋内階段から屋上へと避難することは困難だったと思われる。生死は遅くとも出火から30秒以内には決定していたと記載されている。

脱出できた人々は、出火後すぐに建物を出ていた。一部の人々は1階から出て、近隣の建物に逃げ込むことができた。少なくとも1人の男性は、窓から飛び降りて無事に助かった。他の人々は割れた窓やドアから落ちたり飛び出したりして、手足を骨折した。

現場近くの大善寺の住職を父に持つ17歳のハダケイユさんは、火災発生時に急いで救助に向かった人々のうちの1人だ。火の回りはあまりに速く、日本の風習によりその日屋内で靴を履いている人は誰もいなかったため、爆発する窓から脱出しようとした従業員数人が割れたガラスを踏んでけがをした。道路の白線に血まみれの足跡がついているのを見たハダさんは、後日父親とともに内密に檀家の自宅を訪ね、命を落とした被害者の「魂を鎮める」ための読経を行った。「これは普通の亡くなり方ではないので、仏教の考え方では(亡くなった方々の)魂が暴れている状態にあった」とハダさんは説明する。

その一方、八田社長は午後6時まで第1スタジオ前に留まり、被害者を慰め、この大虐殺が起きたことを飲み込もうとしていた。日が暮れた後、第5スタジオに戻ろうとした八田社長だったが、どこに行っても報道記者がいた。陽子夫人とともに家に向かった八田社長は、自宅がテレビ局のトラックに囲まれているのを目撃し、近所にある娘の家でこっそりと陽子夫人を車から降ろすと、疲れ果て感情が麻痺した状態で、空いた道路を1人であてもなく走り続けた。最終的に現場近くに戻ってきていた八田社長は、青葉が前日の夜に宿泊した場所からそう遠くないところにある空き駐車場に車を停めた。「車の中で1人で、汗をかきながらぼうぜんと座っていた」と八田社長は振り返る。その夜、ずっと後になってから八田社長の息子さんが居場所を突き止め、そこに合流した。「ずっと、何が起きたのかと考え続けてました。一晩中眠れませんでした」と八田社長は言う。

数区画先の火災現場では、弔問者がすでに建物の端に最初の花を手向けていた。ここには後に、山のように献花が供えられることになる。市の職員が毎晩花を回収しに来るが、翌日にはまた献花の山が築かれる。京アニのファンも弔問に来た。世界中から何千人ものファンが次々に現場を訪れ始めた。

***

被害者家族からの電話も鳴り始めた。「子供と連絡が取れないので、ご家族が皆現場へ向かい始めた」と八田社長は話す。火災当日の朝、第1スタジオに向かっていたが、ちょうど火の手が上がる頃に呼び戻された京アニの高島龍平プロデューサーは、その日に20人ほどの親族が、被害者を探しに訪れたことを覚えている。遺体の多くはあまりにひどく焼け焦げていて、警察での時間のかかるDNA鑑定の力を借りずには、身元を特定することは不可能だった。事件直後の混乱の中で、警察もまた遺体の搬送先や、生存者の居場所や状態の確認に手間取った。京アニでアニメーション部門の部長を務めていた丸木宜明氏は、被害者家族が建物内をうろうろと出入りしながら、情報を求めている姿を見て無力感にさいなまれたことを覚えている。従業員はともに取り組んだ作品の思い出を語ることで、互いを元気づけようとしていた。多くの人々はただ泣いていた。「私たちはとにかく正気を保とうとしていた」と丸木氏は言う。

火災自体で33人が亡くなったが、数日のうちに、生存者も息を引き取り始めた。ある日の午後、高島氏はまた別の被害者家族に連絡する必要が生じたことを伝える電話を受けた。同僚がまた1人亡くなったのだ。この被害者は、高島氏がかつて職場内のライバルと見なしていたが、後に親しい友人となった若いアニメーターだった。「私は感情面で不安定になっていたことを隠さなければならなかった。ご遺族に少しでも安心してもらうために、私たちにすべて任せてもらえれば大丈夫だと感じてもらいたかった」と高島氏は言う。

その後すぐに、数々の葬儀が行われた。八田社長は心の支えとなるよう、2人組で葬儀に参列するように従業員を割り当てた。また、地元メディアが容赦なく従業員や遺族につきまとっていたため、従業員は内密に参列した。「一番辛かったのは、従業員がすべての葬儀に参列することができなかったことです。従業員たちはどの葬儀に参列するか選ぶことを余儀なくされた」と高島氏は語る。火災からわずか数週間の間に5回も葬儀に参列した従業員も複数いる。

火災は無差別に命を奪っていった。目を見張るほど美しい画風で知られ、キャリアの大半を京アニで過ごしたアニメ界の巨人、武本康弘氏(47)も、わずか5ヶ月前に仕事を始めたばかりの別の従業員も、同様に亡くなった。ボランティアで地元の消防団員をしていた若いアニメーターも、3階で死亡した。年長の優れた指導者で、京アニの使命について雄弁に語っていた木上氏もまた命を落とした。こうした喪失の1つ1つが、八田社長が京アニの今後の道を心に描く力をむしばんだ。「中心になった人達がいなくなったわけですから。心が痛みました」と八田社長は言う。

火災から数週間の間、八田社長は時々青葉のことに思いを馳せた。9ヶ月前の2018年10月、京アニは特定の従業員の名前が明記された殺害の脅迫メールを相次いで受け取っていた。しかし、そのメールは基本的にすべて同一であり、送り主は1通だけメールを書いて、それを何百回も送ったかのようだった。その脅迫に対する当時の警察の捜査ではほとんど実りが得られなかったが、今になり、盗作されたという青葉の主張を踏まえると、八田夫妻は再び考え直してみざるを得なかった。京アニはファンとのつながりや関わりを保つ取り組みの一部として、2009年以来毎年、アマチュア作家によるライトノベル(米国のヤングアダルト向け小説に近いジャンル)のコンテストを後援してきた。受賞作は出版され、テレビアニメ化や映画化のための有望な原作として選ばれてきた。

八田夫妻は当初、青葉がコンテストに参加していたことを把握していなかったが、火災発生後により徹底的に調べたところ、青葉は実際に自作の小説を過去のコンテストに応募していたことが判明した。しかし、盗作されたという青葉の主張とは異なり、青葉の応募作は第1次審査を通過しなかったと八田夫妻は言う。京アニは青葉の作品を見直したうえで、同社が発表した作品のどれにもまったく似ていないと報告した。(八田夫妻は、青葉の小説の内容を開示するかの決定は、現在その原稿を所持している警察に委ねられており、コメントは差し控えるとして、小説の内容について語ることを拒否した。)

警察は青葉について八田社長には何も語らなかったが、青葉の過去の断片はメディアに取り上げられ始めた。青葉の父親はスクールバスの運転手で、最初の妻との間に6人の子をもうけた後、妻の元を離れ、ある幼稚園教諭と親密になった。その女性との間にさらに3人の子が生まれ、その2番目が青葉真司だった。青葉の父親は1999年に自殺し、それ以来青葉はきょうだいとの関係を断った。青葉はその後、少なくとも2件の犯罪に手を染めている。最初は干してある洗濯物から女性用下着を盗み、執行猶予を受けた。2012年には、コンビニエンスストアに強盗に入った罪で3年半の実刑判決を受け、服役した。それ以来、保護観察や更生訓練施設を行き来していた。埼玉で青葉の近所に住んでいたある女性は、社会福祉士が健康状態の確認を行うために日中に青葉を訪ねているところを時折目にしたと言っている。

***

犯罪率が低いことで世界的に有名な日本は、火災発生時、第二次世界大戦以来最も安全度が高かった。国連によれば、2017年日本で起きた合計殺人件数はわずか306件で、人口10万人あたりの殺人発生率は0.20だった。(それに比べ、米国の人口10万人あたりの殺人発生率は5.3、合計殺人件数は17284件だった。)ちょうど青葉の襲撃が起きた7月18日に、日本の警察庁は2019年上半期の日本国内の合計犯罪件数が8.7%減ったことを発表した。

公共安全における一般的な動向とまったく一致しない、今回の突然の凶悪な大量殺人事件は、スケープゴートが生まれる危険性をはらんでいた。アニメコミュニティは熱心で献身的なことで有名だ。日本には、オタクと呼ばれる古くから存在してきた1つのサブカルチャーがある。オタクとは、不器用な振る舞いで社会になじめず、空想の世界にのめり込みすぎて「一般社会」に参加できない人々という固定観念で見られてきた、熱烈なアニメや漫画のファンのことだ。あるメディアの報道では、青葉は「オタクのように見える人物」だと示唆されている。火災前の数日間の青葉の動きが報道陣によって明らかにされると、多くの人は青葉が京アニの「聖地巡礼」を行っていたのではないかと推測した。「聖地」とは、お気に入りの映画の中で描かれた場所を実際に見たいと望む熱烈なファンの間で人気となっている観光地のことだ。青葉が聖地巡礼をしていたことはおろか、何らかの観光地へ行ったことすら確認できる直接の証拠は1つも発見されていないが、多くの人にとってはその可能性があるというだけで、青葉は精神に異常をきたした献身的なアニメ狂だというイメージを固めるのには十分だった。

オタクへの恐怖の発祥は、宮崎勤という男が4人の幼女を殺した1989年にさかのぼる。自室からホラーやアニメのビデオテープの大量のコレクションが見つかったことから、宮崎は「オタク殺人者」として知られるようになった。日本社会から疎外された若者の間でのアニメと漫画の人気の高まりが、宮崎を殺人者にした一因なのかをメディアが問うことで、増えつつあるオタクという現象に対するモラルパニックが起こった。それ以来、センセーショナルな事件が起こると、一般大衆はオタクへの疑いの声を繰り返し上げてきた。拡大解釈であることもしばしばだったが、ごくまれに問題視されるような関連が見られることもあった。例えば2003年には、土田博行というアニメファンが母親をバットで殴って殺害し、カルト的なテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に影響されて人類は「不必要」だと考えるようになったと主張している。

しかし近年では、名作アニメ作品が日本の最も誇る文化的輸出品となり、オタクという言葉が持っていた軽蔑的な響きの大部分は払しょくされた。その過程は、シリコンバレーの商業的影響力の急上昇とアメリカのポップカルチャーにおける「ギーク」の再評価との相関の仕方に似ていなくもない。今やあらゆる職業や地位の人々が自らをオタクだと言い始めている。もちろん暴力的な犯罪には、さまざまな時代においてあらゆる種類の娯楽との関連が指摘されてきた歴史があり、そういう意味ではアニメに影響を受けた殺人も例外ではない。しかし実際に行われた場合、放火というものは、「原始的な暴力であり、多くの場合極めて高いレベルの恨みと反社会的な傾向に関連している。非常に特殊なカテゴリーに入る行動だ」と筑波大学で心理学の教授を務める原田隆之氏は言う。

青葉が恨みを抱いており反社会的だったことは明らかなように見える。人々を孤立させる傾向があることで知られる日本社会の中でも、青葉は極端に孤立していた。過去に犯した罪で受刑者となっていた青葉が、社会に復帰できる可能性は低かった。しかし、青葉が実際にアニメファンであったことを示す兆候はほとんど見られない。青葉の隣人であるマツモトさんは誇りを持ってオタクであることを自負しているが、青葉の部屋からテレビゲームの音が聞こえてくるのを耳にしたことはあっても、アニメ映画の音は一度も聞いたことがないと言う。「彼は、無趣味で何もかもどうでもいい人のように見えた。アニメが好きなようには見えなかった」とマツモトさんは語る。

情報が少なく、また誤った情報も多く出回る中で、京アニでは皆、何をすべきかよくわからなかった。「一部の人々にとっては混乱が怒りや憎しみに変わり、別の人々にとっては絶望に変わった」と八田社長は言う。9月21日、従業員は被害者遺族のための追悼集会を開いた。12人のアニメーターがそれぞれ、親交の深かった3人の被害者を選んで肖像を描いた。アニメーション部長を務める丸木氏は「彼らを失った現実に向かい合うことができた。少し心が落ち着きました」と話す。

まだ火傷で命を落とす被害者がいる中、10月には青葉が意識を取り戻し、手当てをしてくれている看護師と医師の医療チームに感謝を述べる一方で、意図的に第1スタジオを狙ったことを認めた。「多くの負傷者を出せそうだと思ったから」と青葉は警察に語ったという。また青葉は、完全に反省しているとはいかないまでも、自分のしたことは理解しているようで、「道に外れることをしてしまった」と曖昧な発言を行った。現地メディアの報道によれば、青葉は死刑判決を受けることを予期していると捜査官に話したという。(日本では、執行数は少ないが、死刑が合法である。)青葉はまだ逮捕されておらず、病院の熱傷治療室にいる。日本の法律では、入院中の容疑者は逮捕されたら直ちに警察の管理下へと移送されなければならないとされており、当局は専門設備のない医療刑務所へ移送する前に、襲撃時に体の約90%に命にかかわる火傷を負った青葉の健康状態が改善するのを待っていると発言している。年末には、青葉は日本で史上初めて人工皮膚だけを移植された重症の火傷患者となったことを病院の職員が明らかにした。ドナーによって提供された皮膚には限りがあるため、病院側は保管されている提供皮膚は被害者のみに使用することに決めたのだった。

***

火災のニュースがもたらされてからの最初の24時間、桶田大介弁護士は悲劇が展開していく様子をテレビで見ていた。桶田弁護士はその完璧なスーツとペイズリー柄のネクタイ、イタリアンレザーのブリーフケースにより、専門とするアニメ界では異端児となっていた。桶田弁護士は2010年に八田夫妻と出会い、夫妻と親しいとまではいえなかったものの、業界関連の会議やアニメショー、カンファレンスを通して定期的に連絡を取り合っていた。

桶田弁護士にはまた、悲劇後の八田夫妻のかじ取りを助ける上で主要な役割を果たしていた可能性の高い、京アニの事業部長を務める友人がいた。しかしその友人は病に倒れて入院中だった。京アニの顧問弁護士はおそらく被害者家族や保険会社への対応に追われているだろうことを知っていた桶田弁護士は、八田夫妻は実質的に単独で、莫大な法的・経済的困難に立ち向かっていることを思い、道義上、手を差し伸べなければならないと感じた。「私は京アニの一員ではない。プロデューサーでもない。多額の資金も持っていない。私にできることは彼らを守ることだ」と話しながら、桶田弁護士は開いた傷口に見立てた自分の腕にそっと手を置き「私は傷跡のかさぶたになろうとおもった」と言った。

桶田弁護士は妻と話し合い、京アニが必要とするものに全力を捧げたいという彼の申し出を京アニ側が受け入れた場合は、通常の業務をストップすることで合意した。事件後最初の土曜日、桶田弁護士は連絡もしないままスタジオを訪ね、助力を申し出た。八田社長は桶田弁護士に、まず陽子夫人と相談するように頼んだ。桶田弁護士が陽子夫人を見つけ出して話をした時、夫人は彼の腕の中で崩れ落ち、弱々しい声で「お助けください」と言った。

日本国内外で、京アニの火災の被害は他に類を見ないものだという感覚があり、それに対する対応はその被害に見合ったものであるべきだという共通認識が形成された。すでに他のいくつかのスタジオでは、模倣犯を心配する従業員の声により安全手順が変更された。一部の人々は、大変な憧れの的であった同業者たちの身に降りかかったこの痛ましい被害に、ただ打ちのめされていた。「東京の多くのアニメスタジオが、スタッフが集中できず、生産性が上がらないことに気づいた」と桶田弁護士は言う。(日本では京アニ襲撃の3ヶ月後、『新世紀エヴァンゲリオン』を手がけたアニメスタジオのガイナックスに対しオンライン上で脅迫を行ったとして、犬飼典昭が逮捕された。)桶田弁護士はこうしたより広範な懸念を把握してはいたが、彼を最も強く駆り立てたのは、八田夫妻を助けたいという深く根ざした希望だった。そして桶田弁護士はその後数週間、京アニを救い、残った従業員を守るための、共同での舞台裏の努力の要となった。「もし何もしないでいたら、そんな自分に耐えられなかっただろう」と彼は言う。桶田弁護士は無償で手助けを申し出たのだ。

最初の課題はメディアだった。桶田弁護士はこの悲劇を取材する何十人かの報道記者を相手に、取材をやめない場合、京アニは何も明かさないが、トラックやレポーターをスタジオ前の道路や従業員の家から撤退させたら、定期的に最新情報を教えるという取引をした。またその一方で、被害者家族は取り乱して混乱しており、何らかの形で怒りを抱かれるのはほぼ避けられないだろうと桶田弁護士は考えた。たとえたった1家族でも会社を訴えることを決めた人が出たら、壊滅的な状況になりえた。「我々は神ではないので、命を取り戻すことはできない。できるのは支援金を支払うことくらいだ」と桶田弁護士は言った。

火災の直後、テキサスを拠点とする専門配給業者で、京アニの作品のいくつかを米国で公開してきたSentai Filmworksが、国際的なアニメファン層からの寄付を募るGoFundMeキャンペーンを立ち上げた。数日のうちに、240万ドルの寄付が集まった。7月22日、桶田弁護士は京アニのウェブサイト上で一元的な寄付受付プログラムを発表し、Sentaiが集めた寄付金に加え、日本中で非公式な経路を通じて押し寄せ始めていた何百万ドルもの寄付金を集約した。同時に、寄付金の課税を免除してもらう方法を見出せることを期待して、日本の国会議員や関係省庁、首相官邸にまで相談し始めた。非課税になれば、最大で40%多くの支援金が被害者家族の手に渡ることとなる。

カナダのジャスティン・トルドー首相や台湾の蔡英文総統などの世界的有力者からの初期の支援の波に支えられ、桶田弁護士の慎重なロビー活動は実を結び始めた。事件後5週間以内に、犯罪被害者への寄付金の拠出と受取のいずれも非課税とする初めての法解釈が示され、この事件への義援金にその適用が認められた。これまでに寄付された額は3000万ドル以上に上り、そのほとんどはファンたちから寄せられた少額の寄付によるものだ。京アニは自社の再建のために寄付金の一部を使うべきだと主張する人もいたが、八田社長は寄付金全額を被害者とその家族に渡すと言い張った。

***

火災後の数週間の間、八田社長はなぜ事件が起きたのかという疑問へと立ち返ることもしばしばあったが、やがてそれを尋ねても虚空を見つめているようなものだと感じるようになった。5ヶ月が経ち、八田社長はその疑問を後に残し、青葉を乗り越えて先へと進み始めている。「(青葉は)眼中にない。存在がないですね。人間のなせるわざじゃないです。人間にできることではない」と社長は言う。八田社長と陽子夫人は、普通なら引退を考え始める年齢に差しかかっているが、それに代わって夫妻は今、人生の意味を見失う危機を体験している。「こうも簡単に諦めたりは絶対しないし、そうしてしまうと僕の人生は一体なんだったんだろうなと思うんですね。心は繋ぐよと。絶対に諦めないぞと。終わる事を一切考えていないですね」と社長は語る。

火災後の数日の間に、桶田弁護士とその他の京アニの従業員たちは、調査のために第1スタジオの焼け跡を訪れた。そこで彼らは小さな奇跡を発見する。紙に描かれた京アニの制作中の作品は約半分が火災でダメになったが、建物の奥の片隅、防火扉とセメントの壁の後ろにあった京アニのサーバーは無事だったのだ。その大半が今は亡き従業員によって作られた、何千時間分もの作業の成果が、悲劇から生還したのだ。

一部の従業員は悲劇の起きた現場で仕事をすることへのためらいを口にしているため、八田社長は第1スタジオを再建するべきかどうか迷っている。解体して小さな記念公園を建てるという案に惹かれている社長だが、すでに精神的にダメージを受けている周辺住民の迷惑になることを懸念してもいる。アニメファンが集まることは避けられないだろうし、そのことは今でもすでに近所の人にとって日々迷惑になっているからだ。

生き残った京アニ従業員のうち、事件後退職した人は著しく少なかった。そして戻ってきた多くの人々にとっては、ゆっくりと慎重にペンを紙に乗せていくことだけが、唯一意味を成すと思えることだった。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』でキャラクターデザインのチーフを務める高瀬亜貴子氏は、絵を描いている時だけは亡くなった同僚を「近くに」感じると言う。そして家では、「虚ろな状態」へと沈み込んでいる。

当初から、家族と善意は京アニの企業文化の基盤となっていた。八田社長は今では、残った従業員とともに仕事に戻ることが、自身につきまとい続ける答えのない問いへの唯一の回答であると信じている。「お子さんを失ったお母さんもいるし、お母さんを失ったお子さんもいるし、長男を失くしたお父さんもいらっしゃるんですね。会社の再建っていうのは気持ちの問題ですから、何もないとこから、ここまで来ているんですね。だから、気持ちが揃えば明日が作れる。ただ、家族を亡くしたご遺族はこれから生きていくんです。会社は会社として、気持ちを繋ぐのを大事にして、1人でもいる限り、私たちは進み続けます。」と八田社長は語る。